抉れて裂かれて あふれるもの
018:塞がらない傷口
紅い闇。見開かれているはずの視界が真っ赤に染まった。大きな手が口を覆ってともすれば息ができない。それでも脚の間を突き上げられて仰け反る体にこもった悲鳴が漏れた。抵抗すると手酷く殴られる。髪を引っ張られて地面へ俯せに倒される。雨上がりの地面は咽る麝香に吐き気がする。泣き声と悲鳴が入り混じった嬌声を上げるハーノインの目の前を誰のものともしれない手が指差す。お前が駄目ならあれでもいいか。小間使いでもしているのか荷物を何度も抱え直すイクスアインが横切る。虚へ連れ込まれているハーノインには気づいていない。男の声が様々に言う。あれはお前と違って頭が良さそうだから覚えも早いだろ。涙と涎と洟で汚れた顔で荒い呼気を繰り返してハーノインは懇願した。死ぬ。あいつに知れたら俺は死ぬ。だからそれだけは、やめて。懇願にねじ込まれる熱望を嘔吐きながらハーノインは奉仕する。熱の奔流を注がれて幼い腹が膨らんだ。
ばち、と開けた視界は薄暗い。途切れがちな呼吸を繰り返してハーノインの碧色の目があたりを見回す。…ゆめ。起き上がろうとして腰を貫く違和感がある。顔や髪がべっとりと濡れて独特の芳香を放っている。嗅ぎ慣れた異臭にハーノインは大きく息をつく。指先がカタカタと震える。辺りへ散らばる軍服は誇り高い白地に赤襟。肩と腰を引っ掛けるようにしてつなげるベルトはよく馴染む赤銅色で階級の縫い取りは金糸で袖と襟へ施してある。良質の革の長靴まで放り出されている。ハーノインの体は指先から爪先まであわらに曝され、全身がねっとりと湿る。顔と脚の間は特にひどくて息をするたびに体内から熱いものがあふれた。面倒くさいな。
生き残るためになんでもすると決めた。どうせ頭はろくに回らない。作戦の解析も冷静もハーノインにはない。戦闘機越しであっても肉薄すれば直に相手へ切りつけようとする。諌められても直らなかった。たぶん男が憎かった。軍属という組織の性別の偏りは深刻で苛烈を極める上下関係のはけ口に、特別な扱いを要する少年軍属は宛てがわれた。組織体系の中で少年軍属は異色だった。特に優れた同僚たちは一人旅団と呼ばれてそれは畏怖と同時に蔑称でもある。俺達の周りに連帯感なんてない。
「…くそ」
頭を抱えて気分の悪さを耐える。脚の間以上に口の中の異物感がひどい。でろりと白くて苦い唾を吐く。何度も注がれて鼻腔にまで感触や臭いが至っている。水道を直接突っ込んで洗浄したいくらいだ。体が重たくて怠い。目蓋を閉じようとした瞬間に気配を感じて撥条のように体が跳躍した。人体の出来はいいから磨けばいくらでも武器になる。研がれた爪を武器に飛びかかるハーノインを彼はあっという間に抑えこむ。
「練度評価はEだな」
飛びかかる勢いさえいなしてハーノインをはねのける。床や椅子を巻き込んで打ちつけながら壁へ衝突した。一瞬潰れた肺で息が詰まった。粘つく白い体液で汚れた長椅子とハーノインの裸身を見てカインはなんの反応もない。厭うでもなく疎むでもなくまして褒めもしない。カインの位置ならハーノインを馘首にできる。黒い眼帯は大きめで眉上から頬骨までを覆っている。隻眼であってもカインの視線は明確に痛かった。皮膚の上でちりちりと火薬が灼けるように長引く痛みだ。
靴音も気高くカインが歩み寄る。逃げ道も方法もない。黙ってされるままだ。白くて滑らかな指がハーノインの湿った皮膚を撫でる。蜥蜴にしてはうぶだ。符牒を匂わせる言葉にハーノインが嗤った。カインも裏を知らぬものではないということか。地域も時期は限定できない。それでも蜥蜴は男娼を示す隠語として使われていた。どこからか耳にした下官から隠語はあっという間に広まった。立ち位置の証明にも使われる。扱う符牒や隠語のレベルで互いの立場の高低をはかる。情報は立場によって変わる。呻いて身じろぐハーノインの元へ、カインは軍服の裾を尻尾や翼のようにはためかせて屈んだ。動作がいちいち優美で無駄なくせもない。だが癖がないのは警戒するべきなのだとハーノインの中で警鐘が打ち鳴る。人の歴史は部屋や小道具にさえ刻まれる。白兵戦を好むハーノインは刃物や拳銃を持ち歩くし、それらの道具にしたって好みが出てくる。カインからはそういう一端さえうかがえない。
白い指はハーノインの腹や脚の間の虚を圧す。嘔吐いても震えても構わず押し入る。身じろいで逃げることさえ赦さない。皮膚を破って内蔵を弄られると思うほどそれらは露骨だ。下腹部を撫でていた指先が不意にぬめりで滑り込む。裏返った悲鳴を上げて震えるハーノインの体が抱擁された。
「具合はいいな。練度評価Aをやろう。…ふふ、貪欲だ」
割れて濁る嬌声を上げてハーノインは胎内を弄られた。解したところで刀身が切り込み、ハーノインは何度も白濁を吹き上げた。涙と涎で汚れた顔が恍惚として仰け反ったり俯せたりする。尻を突き出す格好さえも気にならない。それ以上に気にするべき脚の間がすでに崩壊している。抜き身は失禁のように止めどなく蜜を吹き床を汚した。切れ切れの泣き声とカインの指摘にハーノインが身震いする。
カインは親切であるのかハーノインが散らかしたまま回収しきれなかった着衣や長靴をまとめてくれた。過剰な干渉がないぶん手助けも少なめだ。だがそれでいいのだと思っている。外衣だけを纏うとハーノインはシャワー室へ直行した。少年軍属は戦闘力の違いから、一般兵と訓練時間さえ重ならない。自然と水分補給や訓練後のシャワー使用時間も異なる。使う面子が限られているシャワー室へ入り込むとハーノインは施錠した。仲間内と言っていい括りであるからそれぞれの予定が少しわかる。しばらくこのシャワー室は誰も使わない。熱い湯に打たれてハーノインはその場へ座り込んだ。冷たいタイルさえもが湯の温度に馴染んで温む。そこで一切の情痕を消し去る。警戒するべきはエルエルフとクーフィアだ。アードライは計算に入れない。あの皇子様は揶揄のとおりに育ちが良くてこういう下層の事情を知りもしない。クーフィアは明確に自分との利害だけで動く年少だし、エルエルフも必要だと判じれば口をつぐむだけの思慮はある。イクスアイン、は。
「う、ぇ」
慟哭なのか嘔吐なのか判らない音が漏れる。熱いはずの湯が微温い。殴られてもいないのに頬が熱い。ピアスを外すのを忘れている。濡らしたらまずいと思うのに脱衣場へ戻る気が起きない。ぺたりとすわりこんだままで排水口へ流れていく湯の流れを見送る。白く濁った湯はいつしか透明になる。洗浄剤がないのだと気づいた。全ての個室へ入り込むとうち捨てられている使いきりのあまりを使う。かき集めればそれなりになる。清潔の度合いはすでに感覚が麻痺していた。そも使いきりであれば拘泥する理由も要らないと理屈をこじつける。泡がたって汚れが落ちるなら由来は問わない。髪と体を念入りに洗浄してたっぷりとした湯で流す。泡が吸い込まれていく排水口は渦を巻いてごぼごぼ鳴った。
体と髪を念入りに拭って着衣を整える。髪を乾かそうと思ったが道具を持ち込んでいない。ハーノインが髪まで乾かすのは稀で、その際にさえまわりの誰かの道具を借りる。生乾きの濡れ髪のままでハーノインはシャワー室を後にした。宛てがわれた自室もそこへ行くまでの通路でさえ密閉空間であるから窓などは驚くほどない。軍属設備などそんなものだ。のろのろと帰り着いた自室の施錠を解く。部屋へ入り込んでから照明をつける。瞬間に戦慄した。寝台が膨らんでいて盛り上がった毛布がうごめく。覗く青い髪。恐る恐る近づくとイクスアインが丸まって眠っているだけだった。力が抜けて座り込みそうになるのを堪える。イクスアインは眼鏡を掛けたままで、体勢や包まり具合から察するにたぶん座って待っていた。転寝しているうちに寒くなって毛布をかぶってしまったのだろう。きちんとしているようで曖昧な具合が残るのがイクスアインらしいといえばそうだ。たぶんエルエルフは転寝しても毛布を被らない。エルエルフはイクスアインとタイプが似ていてわりあい冷静な分析を得手にする。戦闘技術ではエルエルフのほうが評価が高いのは安定しているからだ。イクスアインの振り幅が案外大きいのを幼い頃からの付き合いでハーノインは知っている。
机に備え付けの椅子を引っ張りだして座り込む。熱いシャワーを浴びていた時間が長かったのか少し逆上せている。思考が火照ってとろけている。過剰な快感と放出でイクスアインの訪問理由さえ読めない。なにか食べようと思いながら空腹を埋めたら吐く自信がある。交渉の後はいつもこうだ。腹が減っていると思うのに口にした瞬間に吐き出しそうになる。目の前で眠るイクスアインを眺める。イクスアインは繊細で手荒に扱ったら壊れてしまいそうな印象がある。眼鏡や柔い蒼い髪や、白い肌やそういう脆さが見える。目蓋は透けそうに蒼白くて触れたら潰れそうだ。睫毛まで蒼くてハーノインはいつもこうして触れることさえ躊躇する。触っても大丈夫かな。ハーノインの取り扱いはいつも雑で教官やイクスアインに叱られてばかりだった。手の内に脆いものがあるのだと思うだけで叩きつけてやりたい衝動が起きた。小鳥の卵に似て、自分が守ってやらなければならないと思うものほど叩きつけて壊したい衝動が起きた。手の中にあるだけで割れてしまうような気がする。
イクスアインの目蓋が震えて紺紫の双眸が覗いた。何度か焦点を合わせようと瞬いてからハーノインを認めたらしく跳ね起きる。ハーノインは火照って紅い頬のまま手をひらひら振った。
「お前、…あんまり遅いから」
「悪い、先にシャワー浴びちゃった」
しれっとした物言いにイクスアインはうむ、とうなるような返事をして居心地悪げに身じろいだ。ハーノインが使う毛布をかぶって頬を寄せながらもぞもぞ動く。ハーノインにはイクスアインの惑いが手に取るように判る。イクスアインは交渉のためにハーノインの私室を訪っていて、だから多分したいのだ。でも。ハーノインの熱はもうさんざん発散された後だ。これ以上は体が灼けつく苦痛でしかない。
「イクス、ごめん。今日はお前がそのまま部屋に戻るって言うから便所で流しちゃった」
少年軍属で集まった訓練直後にハーノインは部屋に行ってもいいかと訊いた。その問いは交渉の有無を表す二人だけに通じる隠語で、イクスアインは部屋で眠ると言ったからハーノインは奔放に振る舞った。イクスアインは白い頬を薔薇色に染めて、眠ろうと思ったけど眠れなかったと愛くるしく白状した。咥えてもいいけど。お前に見返りがないならいい。流したばかりなら、辛いだろう。
ハーノインは軍服を脱ぎ捨てて薄着になると先端が尖った胸にイクスアインの手をとってあてがう。ごめん。でも気持ちとしてはお前と一緒だから。熱っぽく囁くだけでイクスアインは真っ赤になって飛び出していった。それを見送ってからハーノインはイクスアインが包まっていた毛布や寝台へ沈む。自分のものであると判っているのにイクスアインが使っていたと思うと違う香りがする。イクスアインの使う洗浄剤の香りがする。枕へ顔をうずめて毛布にくるまる。吐き出しきった熱を顧みない体がひどく痛んだ。涙があふれる。鼻がつまる。グズグズいいながらそれでもハーノインははねのけることさえも出来ない。
「ばか」
布地へ埋める耳元でピアスがきしんだ。
「…ハーノ?」
こらえきれない熱に飛び出して何とか便所で済ませて、イクスアインはハーノインの寝室へ戻ってしまった。互いの寝室の解除キィを教え合っているからなんでもないはずなのにハーノインの寝室はそれだけで違うものになる。何度も入り込んでいるのに他人の部屋は違和感が匂いのようにまとわりついて拭えない。ハーノインの体は椅子から寝台の上に移動していて、仰々しい軍服は脱ぎ捨てられて床へ落ちている。ため息をついてイクスアインが軍服を拾うとハンガーへ掛けて整える。ただでさえ年若さから見くびられがちな立場である。見た目くらいはしっかりしていないと悪口も叩けない。
「ハーノ…寝て、る…?」
イクスアインが頬を撫でるとずいぶん火照っている。熱があるのでなければいいが。山吹の髪を梳いてやるとハーノインが身じろぐ。起こしたかと怯むイクスアインの前で。栗色の睫毛が震えて涙をこぼした。鼻梁をわたってあふれる涙は枕へ染みていく。
「いく…ご、め…」
うわ言のような寝言にイクスアインは眼鏡を取る。そのまま口付ける。
「ばか…ごめんな」
イクスアインはハーノインの枕辺に寄り添うように頭を載せて床へ座り込む。毛布や寝台からだらりと垂れる手をとって頬を寄せ唇を寄せる。
「ハーノ、ごめん」
不自由な姿勢を取りながらイクスアインはハーノインと手をつないだまま微睡んだ。眠りから覚めるたびにハーノインの表情をうかがう。苦しんではいまいか。泣いてはいまいか。
君が好きだから
「ハーノ…」
眼鏡の落ちたイクスアインの双眸は過剰に潤んで閉じられた。
《了》